伊集院光と僕

 伊集院光は饒舌だ。健やかなるときも、病めるときも、師匠が死んでも、愛犬が死んでも。マイクの前にいる彼は饒舌である。

 僕が、当たり前のように女に捨てられたときも、社会に溶け込むことは困難であると医学が証明してしまったときも、部屋で天井を見つめSNSで駄々をこねているときも、電車内でガチモンの発狂をしてしまったときも、数年に一度あるかないか。この世に生を受けて良かったと思えたような日も。伊集院光は、当たり前のように饒舌であった。

 人に愛されないことを確認する為だけに彼女が存在したかのように、人を好きになるということが、振られるための前振りであったかのように、n回目の失恋を経験した僕は、youtubeの検索窓に伊集院光の名前を打ち込む。

 人よりも感受性が豊かだから。そんなオブラートに精神病を無理やり包んで飲み込まなければ立って居られないほどに僕は不安定で、失恋がn回目を数えても、やっぱり世界は灰色になってしまうし、街を包む喧騒も一言残らず読み取ってしまう。

何かを勝ち取ったような声の集合体である喧騒を何の防護服もつけず受ける。ただ受ける。僕は彼らに毎秒単位で敗北を喫している。彼が、彼の所有する女の胸を揉んだ瞬間、彼女が、所有主に胸を揉まれる瞬間、言葉を発する瞬間。彼らが何かを思考した瞬間。彼が彼女が慈しむような目線を交わす瞬間に至っては一度に2回の敗北をカウントすることになる。他己評価において天文学的な敗北を数えなければ、僕は帰宅すらままならない。

 絶対的な自己評価の上で生きられない僕にとって、伊集院光は救い象徴である。僕が何度負けても、ラッキーパンチで彼らに瞬間的な勝利を収めても、勝負すらさせてもらえないときも、彼は変わらず饒舌だ。勝負する相手、具体的に言えば、山手線大崎駅の改札周辺で目線を向けてしまった人間の数だけ評価や勝敗がブレてしまうクソ敗北他己評価人間の僕にとって絶対的なのは、彼が饒舌であること以外に何もない。

 n回目の失恋の苦しさで社会との不適応で暴力で自分の無力さで押しつぶされそうになったとき、僕はyoutubeの検索窓に伊集院光の名前を打ち込む。スピーカーの向こうで彼が、かつて愛した彼女との別れ際に自分のウンコを投げつけたとき、彼の不登校を案じて説得にきた従兄弟の大学生を数十年の月日を経て50分丸々コキおろしているとき、神田うのが肥溜めに落ちる妄想を嬉々として繰り広げているとき、親友の死を笑いに変えているとき。それを「おもしろい」と思うことで、n回目の失恋以前と以後で自分のアイデンティが崩壊していないことを確認する。他人と比べることでしか自分のことを評価できない僕が絶対的な自分を確認できる唯一の手段は、彼を同じ感情で「おもしろい」と思えているかどうか、なのである。

 この自己否定と自己否定する自分への客観視と、相対的評価での圧倒的な敗北と、他己評価から自己評価へ移行することができない絶望と、日々の焦燥と、社会に適応できない現実と。そしてなにより、愛への渇望で押しつぶされそうになっても。それでも、伊集院光が饒舌である限り、僕は彼で笑うことが出来る。

 僕は失恋する度に、社会に適応できなかった度に、伊集院光youtubeで検索する。彼が饒舌であることを、それを面白いと感じられることを確認する。どんなに僕の境遇が変わっても。彼が饒舌であり、僕が彼を面白いと思えている限り、僕は彼の「おもしろ」を享受できる。その絶対は、僕が生きる理由たり得ている。

 僕は伊集院光に生かされている。