借金の理由。メモ。
営業マン
外回りから帰ってきたら、職場の人たちが輪になっていた。地下鉄で泥酔してウンコを漏らしてる男の動画を会社の人が見ているらしく。みんなが爆笑してた。
20分くらい話が盛り上がっていたんだけど、要約すると「気持ちが悪い」を連呼しているだけだったと思う。
意見を求められて、「マジっすかwやばいっすね?え?これどこっすか?w」と言ってはみたものの、「何で“気持ち悪い”と“ヤバい”んだろうか」とか考えてしまっているので、マジっすか。とヤバいっすね。の間には3フレームくらいの間があった。
その逡巡は一般社会を生きることにおいて信じられないくらい不利に働く。
僕にとって日常会話の1フレームは、格闘ゲームのソレよりもシビアだ。
「気持ち悪い人間をみたら、反射的に“ヤバい”と言えるようになった方がいい」僕はまた一つ仕事を覚えた。
「同じ課のデブは仕事ができなくて嘘をつくことが多いからバカにしなければいけない」
「隣のシマにいる久保田さんは仕事を真面目にしているけれど気持ちが悪いので笑っていい」
「僕は気持ち悪い人間なので事務の女の子の中から好みの子を発表しなければならなくなったときは“優しそうだから”という理由で選出しなければならない」
仕事を覚え始めた僕は、職場の人間に生きることを「許される」形で職務に従事することができるようになっていた。生きることを許す側に回るためには、笑いたくないことに「本気で」笑うか、清潔感を身に纏うか、自分という人間のおよそ7割を社会というテーブルに載せて仕事をしなければならない。そこまでして社会に適応しようとする体力が僕にはなかったので、生きるのを「許される」ように自分なりに頑張った。
普通の人間でいうところの「呼吸をする」にあたる行為である。
逃げるように職場を去って(逃げるように職場を去っていると悟られることに関しては諦めてしまっている)、帰りの電車でツイッターを開く。もう、140文字にしたいことが無くなってしまったから更新することはないんだけど、十数年の習慣はなかなか抜けなくて、何となくTLを追ってしまう。
上級国民の飯塚氏が世間に叩かれていて、なんだかもう生き苦しさで頭がおかしくなってしまいそうになる。ツイッター上でも、「気持ち悪い人間」と「考える余地もなく悪い人間」がサンドバックにされていて、本当に反吐が出る。
僕は、この手のニュースを「この退屈な日々に何かが起こってくれ」ではなくて「悪い人間には正義の鉄槌が下るべきだ」みたいな目線で見ている人間が嫌いだ。
飯塚氏を叩いている人間は、どんな根拠を以ってして彼を叩いているのだろうか。
「自分は絶対に運転ミスをしない」から?
「本当に運転ができなくなったら自分は免許を返納する」から?
もしかしたら、「自分は間違いを犯したら自ら進んで罪を償う」から叩いているのかもしれない。
どの理由だとしても、マジかよ。って思う。
「自分は運転ミスなんて絶対にしないし、免許を返納しなくても大丈夫だ」
正義側として叩いている根拠になりうるそのマインドはまさに、飯塚氏が持っていた傲りと同じ種類のモノなんじゃないか
僕は、運転をしてたら歩行者に突っ込んでしまうかもしれないし、もし自分の人生にプライドを持っていたら免許の返納はできないかもしれないし、自分が粘ってれば刑務所に入らなくて済む状況なら粘ってみようと思う人間だから。「正義側」に回って他人を責めることはできない。
そんな想像力や弱い人間に対する優しさには何の得もないのも知っているし、そんな優しさを持ちたくて持っているわけではないけど、そう思うんだから仕方がない。
「弱い人間の気持ちを考えられるのは素晴らしいことだよ」と、僕の人生をなにも保証してくれない人間は言うけど、どう考えたって「弱い人間の気持ち」が分かるよりも、気持ち悪い人間を見て笑っている「強い人間」の気持ちが分かる方が良いに決まっているだろう。
もし本当に素晴らしいことなのだとしたら。その、僕の持っている優しさとやらを、さっさとカネかオンナか名誉に換金して欲しい。
職場にいる人間も、ツイッターにいる人間も。なんで「正義」の立場から他人を叩けるのかが理解できない。もしその理由が「自分が間違った側の人間になる想像力がない」からだとしたら、僕より全員が劣っている為に僕が窮屈な人生を歩んでいることになる。そんな馬鹿な話はないだろう。僕だって自惚れだと思いたいけど、そのほかに「正義側」に回って他人を叩ける理由が思い付かない。
もしかして、マジで僕以外の人間は馬鹿なのか?家族を守ったり自分の仕事に責任を持ったりしてるような人たちなのに。まさか、本当に馬鹿なんだろうか。
なんの記事か忘れたから数字も正しいかどうかわからないけど。日本にいる人口の約2%は前科持ちらしい。50人に1人。「正義側」に叩かれる人間は1/50だということになる。
みんなは、学校でイジメられたことはないのだろうか。部活で自分だけレギュラーになれなかったことは?新人のときに、職場で一番仕事ができず、夜遅くまで残って仕事をした経験は?
そんなのだって、小さな「社会」に適応できなかった 1/50であることには変わりはないんじゃないか。
それでもまだ、「強い人間」は「正義」として「不適応者」に「正義の鉄槌」を下すのだろう。意味がわからない。
「久保田さん汁男優らしいよwwww」「え?wwwあいつ童貞じゃないの?www」「ちょっと聞いてきてよwww」「マジで?え?いく?w」
「正しい人間」が「正しいこと」を言っている。職場とはそういう場所であって、仕事を覚えるということは、社会に適応するということは、「正しい人間」になることに他ならない。
僕は仕事を辞めた。「正しい人間」になれなかったから、僕は無職になった。退職金と治験と失業保険で食い繋いで。それから先は分からない。どこの会社に入っても、それが「社会」である限り、僕は働くことができない。
彼に童貞かどうかを確認できなかったことが「優しさ」ならば、さっさ換金したい。カネがないと死ぬから。それが「素晴らしいこと」ならできるはずだろう。そうじゃないのなら、やっぱり俺以外の人間は全員が馬鹿で、「社会」は圧倒的に間違っている。
山手線
いまが山手線の何駅なのか関係なくなって、もう1年が経つ。精神障害と交通事故で仕事を干されたのが丁度1年くらい前。窓際社員としても営業マンとしても中途半端な僕は、首都圏営業部に配置され比較的ラクな担当先を任された。窓際社員として“優遇”されていることは周知の事実で、僕は毎朝、「生きててごめんなさい」と出社し「消えてなくなりたい」と言い残し外回りに出掛ける。「おはようございます」「行ってきます」が聞き取れないのも無理はない。心も魂も込めていない言葉が他人に届かないこともまた当然だと思う。社会参加の意思がない人間にとって最も難しいのはハツラツとした言動で、僕の「おはようございます」はやっぱり、どの角度から考えても届かない。「届け」なんて気持ちを抱いたことは、入社以来1度もない。
行くアテもなく外回りに出掛けた僕は山手線に揺られ続ける。乗る駅も降りる駅も関係なくて、問い合わせの電話が数件溜まったら電車を降りて対応し、また山手線に乗る。作業が必要なときは電車の中でパソコンを開く。
2周くらいしたら流石に駅員に怪しまれるので適当な駅で降りる。ちょうど昼食の時間になっていることが多い。ラーメンかなんか食って、また山手線に乗る。この辺りになると処理しなければならない案件が数件溜まっているので、山手線で処理して、あとは中吊り広告を眺めている。いろいろなことを諦めている僕には、コンプレックスを刺激することでカネを稼ごうとしてくる広告も意味を成さない。英会話が出来る人間になりたいなんて見栄はもう捨ててしまった。だから、広告の仕組み自体に嫌気が差すことはあっても実害はなかったりする。
会社支給の携帯電話にはGPSが付いている。別に調べられたりなんてしないんだけど。ここまで山手線をグルグルしてるんだから「電車に携帯を落としちゃってました」なんて言えば案外バレないかもしれない。それで怒られるようなら辞めればいいや。どうせこんな生活、三十路過ぎれば成り立たなくなるんだから。
「辞めればいいや」って予防線は、中学生のころ筆箱に忍ばせたカッターナイフのような役割を果たしてくれていた。社会人になって唯一よかったと思えるのは、カッターナイフを振りかざす権利を与えられていること。転校よりも転職の方がドロップアウト後の影響は少ない。そんなことを考えながら、僕は山手線に揺られ続けている。
夕方、唯一入れているアポイントを処理する。今日、初めて自分の意思で電車を降りた。得意先に着いて、自分より人間として優れている相手に見下されながら世間話をする。あいつらが微笑みながら俺と会話ができるのは営業スマイルが上手いからじゃなくて、僕のことを見下しているからだと思う。
用件を話しながら、僕はもがいている。「社会に参加する意思がない」ことで相手にマウントを取ろうと、もがいている。社会と折り合いをつけられていないことで他人との差別化を計らないと立っていられない。他人と違うところなんて欠点しか無いけど、それでも、“特別”にならないと破綻してしまう。
25歳で自殺しなかった時点で、もう破綻しているのかもしれない。でも、自殺というカッターナイフは刃先が鋭すぎて振りかざすのに躊躇する。やっぱり、退職くらいの鈍い刃に変えておくのが健全なのかもしれない。
“特別な人間になりたい”なんて添え木で支えられるのは25歳くらいまでで、こんなもの一生寄り掛かっていられるような代物じゃない。26歳で早くも悲鳴を上げ始めたこの添え木に寄り掛かりながら、何とか立っていられる方法を模索する日々だ。「退職」「夢を追う」「マトモな人生を諦める」大人になって気安く振りかざせるようになったカッターナイフを持っていれば、一人で立てる勇気が沸くのではないだろうか。そんなことを考えながら、僕は明日も山手線を周り続ける。
第1ボタン
なんで第1ボタンを締めなければいけないんだろう。ずっと、そんなことを考えていた。第1ボタンを締めないことで教師?大人?やら社会みたいなものに反抗する気マンマンの彼らを横目に、第1ボタンを締めながら疑問を抱き続けていたのが僕だ。
彼らには、「第1ボタンを締めない理由」があった。反逆者であることが毎週観ているドラマの自己投影になるからかも知れないし、教室内での“出世”の近道であったのかもしれない。単純に、資産価値の高い女子中学生のマンコの中に出したかったから。という理由が結果的に一番合ってそうだけど、とにかく彼らには第1ボタンを締めない理由がちゃんとあった。これは今でも断言できるけれど、言葉に出来ていたかはともかく、彼らには確実に理由があった。
僕は、第1ボタンを締める理由が分からなかった。怒られるから、不良に目をつけられるから、学校を統治しやすくするため。答えのようなものが何となく出たあとも、じゃあなんで怒られるの?って疑問が頭の中をグルグル回り続ける。1人でいるときは常に疑問がグルグルグルグル回り続けるもんだから、僕には通学路を歩いていた記憶がない。黒人のチンコがケツの穴から出たり入ったりするように。僕は疑問にレイプされ続けていた。色々な疑問が出ては入って。そんなことを繰り返していた記憶しかない。通学路の景色は何本もあったデカマラの一つでしかなくて、そんなものは、すでに色々な疑問と一緒にアタマから押し出されている。
なんで第1ボタンを締めなければいけないの?その答えが「権力者が効率的に生徒を統治するため」だと断言できる友達が心底羨ましかった。“その答えの先”に何もないことを本能で理解している彼らが、羨ましくて仕方がなかった。
中学を卒業して、比喩でもなく1万回のオナニーをした僕は社会人になった。頭の中の疑問を黙らせるには射精しかなかった。本能的な快感でしか脳をコントロールできない。今もそう。ガソリンもオイルもないバイクのエンジンを空回し続けるような自慰行為で僕は段々と壊れていった。それでも、頭の中には疑問が回り続ける。
なんでネクタイを締めなければならないんだろう。26歳になったいまも、毎朝、頭の中には疑問がグルグルグルグルしてる。山手線を流れる広告もまた一本のデカマラに過ぎない。なんでネクタイを締めなければならないんだろう。「そういうものだから」だと断言できる友達が羨ましくて仕方がない。友達が断言している“答え”は、あの頃よりも絶対的に間違っていて、あの頃よりも相対的に解答足り得ている。みんなには、ネクタイを締める理由があった。
「第1ボタンを締めない理由」があった奴らはオフィスの外にいた。奴らもまた、ネクタイを締めない理由を、ちゃんと持っていた。たぶん、聞けば、何となく。理由とかも言葉に出来たりするんじゃないだろうか。
気が付くと。何の理由も持ってないのは僕だけになっていた。僕の頭の中だけが、ずっと疑問で回り続けている。あれだけ嫌いだった「第1ボタンを締めない奴ら」がオフィスから居なくなって。僕は少しだけ生きづらくなっていた。
夢をみた
夢を見た。
夢のなかで彼女は、ごめんね。としきりに呟きながら僕を抱き締めた。
滑らかなタッチで僕の太ももを撫でる。女性らしいスベスベとした手先が僕の喉元をくすぐった。滑らかな肌の女の子はタッチも滑らかであることを初めて知ったところで、本物の彼女の手は少しシワの入ったゴツゴツとした手であることを思い出す。偶然、それも数回しか触ったことのない彼女の手で夢を自覚する。
彼女の滑らかな手は僕を挿入へ導く。骨ばった恥丘が、挿入を促す開脚により強調される。夢とは現実のアイコラージュであり、彼女の恥丘はアダルトビデオのモンタージュに過ぎない。粗末なアイコラの正体に気付いたとき、強姦罪の実刑が懲役4年であることと、6年間の片想いの末に彼女の秘所に触れることができなかった事実とが往き来する。
射精をするわけでもしないわけでもなく、挿入は終わる。いつ終わったのかもわからないけど、また彼女の滑らかな手が僕を撫でていた。アダルトビデオのシークバーを右へ進めるように、夢のなかでは違和感なく、画面の外からは違和感だらけで。僕は射精をしたらしい。射精後のオーガズムには自慰行為の感覚が使用されていて、なんだかとても安心した。
夢の中で彼女は、しきりに「ごめんね。」と呟きながら、僕を挿入へと導く。
この、「ごめんね。」の声は、僕が彼女に告白をしたときに、二時間にも渡って彼女が泣きながら呟き続けた、あの声であったと思う。
あのとき、泣きながら僕の背中を抱き締めていた彼女の手は、やはりゴツゴツとしていた。それでいて、泣きながら僕の羽織るカーディガンをグシャグシャに掴む彼女の手は、わざとらしいほどに艶かしかった。
彼女の手は、僕の髪を撫で、首筋へ降り、また股間をまさぐる。
これをみよがしに、彼女は射精を促し、何度目か分からない絶頂を僕は体験する。いや、体験したのだろう。シークバーは、また、射精直後まで右へ進んでいた。
頭部に違和感がある。身体がローションまみれだ。ナンセンスとしか言いようがない。彼女は、園子温が大好きで、僕はその、ナンセンスを盲目的に褒めちぎる彼女が大嫌いな自分のことが大好きだったんだ。
僕の髪から首筋へ降りて、太もも、股間まで、僕の身体はローションにまみれていた。
目が覚めた。時計の針は8時を指しており、僕はベットから跳ね起きた。
慌ただしく、かつ、夢よりも中身のない日常に戻る。片想いを中心に人生が組み立った者にとって、日常とは、彼女との夢よりも中身のないものだ。
夢のなかで、彼女の手を洗い落としたら、その手は滑らかな女性の手なのか、それとも、少しシワの入ったゴツゴツとした手が現れるのだろうか。
片想いにとって大切なのは、そういった、夢の中の自己満足であると、僕は思う。
僕はもう、26歳になった。
魔法のi らんど
■鍵を掛けようとしたことも、一番お気に入りのコートを着て出ていこうとしたことも、社用携帯の電池を確認してから電源を落としたことも。この逃避行がごっこ遊びであることを物語っていた。
キッカリと6時間の睡眠をとった僕の頭は冴え渡り、ケータイ電話が鳴り始める前にアラームを止め、そのままツイッターのタイムラインを眺めるかのように何気なく、東京行きのチケットをとっていた。
レムとノンレムのタイミングのせいかもしれない。
昨晩の自慰行為で使用した水戸商業高等学校チアダンス部まちなかステージが、青春を象徴していたのかもしれない。
昨晩みた夢のせいかもしれないし、若林正恭に心酔しているせいかもしれない。
障害者手帳3級を手にしたせいかも知れないが、少くともそれは、他の可能性と同列であった。
幼い頃、四人家族の父親が蒸発したというニュースが流れた。母は彼の責任感のなさを嘆き、僕は蒸発の意味がよく分かっていない振りをした。2歳の弟は日本語ではない言語で何かを喚いていて、父は、「理由なんてきっと、いつもより空が澄んでいたとか、飲んだ珈琲がおいしかったとか、そういうことなんだろうなあ」と、誰に言うでもなく呟いた。
僕が父親を尊敬した数少ないエピソードのひとつだ。
デスクトップ画面のなかでは、ハイキックからハミ出す陰毛が春風でそよぎ、まちなかステージの空は、いやに澄んでいた。
■人にはみな、何かしらの液体が表面張力ギリギリで注がれており、大人とは、それを溢さないようにバランスをとりながら生きている人間のことである。
だからこそ狂人と凡人なんてものは紙一重で、蒸発する人間としない人間もまた、そうなのだと思う。
そんなわけで、表面張力ギリギリの器に注がれた液体が夢なのか思想なのか精神病なのか、僕には分からなかったのだ。
とにかく、寝巻きからスーツを手に取ることもなく私服に着替え、財布とケータイと3ヶ月分の給与明細のみをトートバックに投げ入れ、家を出た。
扉を閉める間際、机の上に置かれたままになったストラテラが見切れる。強制的に脳細胞を破壊し、感情を殺し、朦朧とした意識と引き換えにエクセルの確認作業が出来るようになるクスリは、精神安定剤から危険物に変わった。
■外に出て、24時間営業のドラックストアに立ち寄り、工業用エチレンアルコールをカゴ入れる。ストラテラを捨てた僕には、新しい精神安定剤が必要だ。脳に欠陥があるのなら知性を脳の欠陥に合わせればいい。脳の欠陥を知性に合わせるよりも遥かに合理的である。
空港への足取りは軽く、飲めば重篤な脳障害を負えるエチレンアルコールは新しい精神安定剤の役割をキチンと果たしている。
8時40分。社用携帯に着信が入る頃だろうか。スクショ画面をさっさと航空券に引き換え、スマホの電源を落とす。
空港のロビーに腰掛けても、いまいちピンとこなかった。感慨に耽るほどの思い入れもなければ、会社に罪悪感を感じるほど、僕の失踪が損害を与えないことも分かっていた。
スマホの電源を入れ、翌月の三連休に飛行機を振り替え、その足でメイド喫茶へ向かった。毒にもクスリにもならない会話を数時間ほどこなしたあとに家に帰り、いつもと同じ時間に自慰行為をし、食事をとり、社用携帯の着信履歴を確認し、床に就く。キチンと鍵を掛けられていた玄関は、この逃避行がごっこ遊びであることを物語っていた。
キッカリ6時間の睡眠をとった僕は、スーツに着替え、ストラテラを服用し出社する。月曜日の朝は一週間のなかで自殺率が一番高いらしい。その意味を考えながら原動機付き自転車を駆動させ、何らかの結論が出る前に会社に着いた。
握り締めた工業用エチレンアルコールの温度は温くなり、飲みにくい
街の名物おじさん
■清潔感至上主義の障害はパートナー呼称。無マンコ気取り糞女が考え出した差別用語。リーズナブルな着回しをすることしか脳がない特権階級の歯糞を分解する清潔感こそが普通の人間だから歯糞が歯糞であると俺は気づいている。歯糞に触れることすらなかった俺は歯糞を歯糞だとGoogleの検索窓を拡大解釈。つまりプラスボタンを押しながら射精する。受精もクリックも試行。本来ならクリックで子供は生まれるはず。はずはないがベキである。それは次元の違いだからオタクの抱える命題というわけではなくてエンターテイメントに救いを求める人間全ての危機であり僕は検索窓との性行為に、着床に成功せねばならない。
■土が盛られたまま建設会社が撤退した空き地にひとり。
さらさらとした盛り土を足の甲で蹴り上げながら、スマートフォンにブツブツと呪詛のように何かを呟き続ける僕は、小学生から街の名物おじさんとして恐れられていた。いや、気味悪がって恐れていたのは彼らの保護者だけであるからして、ランドセルを背負った彼らは僕にリコーダーを投げつけてくる。先端に「田窪」の名前が入っていることから、田窪の呪いとやらを僕に掛けているのだろうと予想する。僕はそれを清潔感至上主義のせいにしながら、またひとつ清潔感が世界の理であることを証明した。足の甲で蹴り上げた盛り土が足の甲に戻ってくる。僕は足の甲で盛り土を蹴り上げた。足の甲で蹴りあげた盛り土が足の甲に戻ってくる。
■スマートフォンに向かって呟く"証明"は接続詞を持たず、それは言語として最も完成された最適解であった。自分に対して自分の偏見を証明し続けることで僕は生き永らえることが出来ているのだから、当然、言語は僕の偏見を証明し続けるために進化する。僕は、外的情報を最も効率的に偏見に変換するように進化した言語を使っている。投げつけられた砂が汗ばんだ首筋に貼り付く。小学生が投げる砂が、差し込んだ夕日に反射してキラキラと輝いている。またひとつ清潔感が世界の理であることを証明する。
■蛍の光が流れると、子供達は田窪の呪いを操る呪術士から無垢な少年へと変わる。僕に掛け損なった田窪の呪いの欠片は、彼らの家で出来立てのハンバーグと一緒に飲み込まれ、なかったことになった。彼らは、そうやって、なかったことにしながら田窪の呪いを掛け続ける。そして明日。ハンバーグがひっついたフォークを握った手で田窪の新品のリコーダーを握り、ハンバーグの残り香をなかったことにするのである。
■子供達が正しく無垢なものになり終えると、僕は足の甲で盛り土を蹴り上げるのをやめる。田窪の呪いを掛け続けられるこの時間が、競泳中の息継ぎの役割を果たす。
ボロ切れを脱ぎスーツに着替えた僕は、今日やり残した事務処理を片付けに品川駅付近にあるオフィスへと戻る。
■名物おじさんになるのは、家出のようなものだ。狂気なんて誰にでもあって、そこに出掛けることは、興味さえあれば誰にでも出来ること。本物は、狂気に住民票を移している。名物おじさんになった僕は、「影日向に咲く」でホームレスの格好をしてニンマリと広角を上げるのサラリーマンと同じ顔をしていた。影日向に咲く。を知らない人間に「義務教育じゃねえんだ自分で調べろ」と言い放ちたくなる振りをした、普通の人間の顔だった。サラリーマン生活に嫌気がさして憧れのホームレスに堕ち、自己陶酔に浸ることができた彼と同じ顔をしていたのである。堕ちた自覚を持たない本物の狂人になる度胸なんてハナからないのかもしれない。名物おじさんとして物価の安いこの土地に名を馳せることは、狂気の世界へ家出をするようなものだ。帰る場所というセーフティーネットがある逃避行。セーフティーネットに引っ掛かってから網を切るか切らないか選べばいい。特権階級の戯れ。僕は、賞味期限が切れていないジュースが売っている地区で、あろうことか厚生年金を支払うような生活をしていた。本物の名物おじさんでは成し得ない役所の手続きと、持ち得ない納税感覚を持った凡夫が本当の僕である。
■本当は、セーフティーネットなんて、ブチ切ってしまえばいいんだ。引っ掛かる間もなく、落下しながら64コントローラの下Aボタンを押し、尖った剣先で突っ切ってしまえばいい。僕は、何者にもなれない。わけじゃなかった。何者かになるのが怖かっただけだ。
■山手線内回り次は浜松町浜松町。僕はこの自己陶酔に溢れた癖を、あの最適解言語で清潔感至上主義に結び付けようとした。アナウンスは歪み、浜松町の次は浜松町に停まる。逆流する胃酸はまるで溺れて水を飲んだような辛さだ。人が溺れるのは息が苦しくなったからじゃなくて、顔を水に浸しながら空気を吸おうとするから。