山手線

  いまが山手線の何駅なのか関係なくなって、もう1年が経つ。精神障害と交通事故で仕事を干されたのが丁度1年くらい前。窓際社員としても営業マンとしても中途半端な僕は、首都圏営業部に配置され比較的ラクな担当先を任された。窓際社員として“優遇”されていることは周知の事実で、僕は毎朝、「生きててごめんなさい」と出社し「消えてなくなりたい」と言い残し外回りに出掛ける。「おはようございます」「行ってきます」が聞き取れないのも無理はない。心も魂も込めていない言葉が他人に届かないこともまた当然だと思う。社会参加の意思がない人間にとって最も難しいのはハツラツとした言動で、僕の「おはようございます」はやっぱり、どの角度から考えても届かない。「届け」なんて気持ちを抱いたことは、入社以来1度もない。

 

  行くアテもなく外回りに出掛けた僕は山手線に揺られ続ける。乗る駅も降りる駅も関係なくて、問い合わせの電話が数件溜まったら電車を降りて対応し、また山手線に乗る。作業が必要なときは電車の中でパソコンを開く。

 

  2周くらいしたら流石に駅員に怪しまれるので適当な駅で降りる。ちょうど昼食の時間になっていることが多い。ラーメンかなんか食って、また山手線に乗る。この辺りになると処理しなければならない案件が数件溜まっているので、山手線で処理して、あとは中吊り広告を眺めている。いろいろなことを諦めている僕には、コンプレックスを刺激することでカネを稼ごうとしてくる広告も意味を成さない。英会話が出来る人間になりたいなんて見栄はもう捨ててしまった。だから、広告の仕組み自体に嫌気が差すことはあっても実害はなかったりする。

 

  会社支給の携帯電話にはGPSが付いている。別に調べられたりなんてしないんだけど。ここまで山手線をグルグルしてるんだから「電車に携帯を落としちゃってました」なんて言えば案外バレないかもしれない。それで怒られるようなら辞めればいいや。どうせこんな生活、三十路過ぎれば成り立たなくなるんだから。

 

  「辞めればいいや」って予防線は、中学生のころ筆箱に忍ばせたカッターナイフのような役割を果たしてくれていた。社会人になって唯一よかったと思えるのは、カッターナイフを振りかざす権利を与えられていること。転校よりも転職の方がドロップアウト後の影響は少ない。そんなことを考えながら、僕は山手線に揺られ続けている。

 

 夕方、唯一入れているアポイントを処理する。今日、初めて自分の意思で電車を降りた。得意先に着いて、自分より人間として優れている相手に見下されながら世間話をする。あいつらが微笑みながら俺と会話ができるのは営業スマイルが上手いからじゃなくて、僕のことを見下しているからだと思う。

 

 用件を話しながら、僕はもがいている。「社会に参加する意思がない」ことで相手にマウントを取ろうと、もがいている。社会と折り合いをつけられていないことで他人との差別化を計らないと立っていられない。他人と違うところなんて欠点しか無いけど、それでも、“特別”にならないと破綻してしまう。

 

 25歳で自殺しなかった時点で、もう破綻しているのかもしれない。でも、自殺というカッターナイフは刃先が鋭すぎて振りかざすのに躊躇する。やっぱり、退職くらいの鈍い刃に変えておくのが健全なのかもしれない。

 

 “特別な人間になりたい”なんて添え木で支えられるのは25歳くらいまでで、こんなもの一生寄り掛かっていられるような代物じゃない。26歳で早くも悲鳴を上げ始めたこの添え木に寄り掛かりながら、何とか立っていられる方法を模索する日々だ。「退職」「夢を追う」「マトモな人生を諦める」大人になって気安く振りかざせるようになったカッターナイフを持っていれば、一人で立てる勇気が沸くのではないだろうか。そんなことを考えながら、僕は明日も山手線を周り続ける。